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■歴史の道

●MAP
●中城城主 護佐丸
新垣の石橋
新垣グスク
ペリーの旗立岩
県道開鑿記念碑
スディバナ
中城城跡
伊寿瑠按司の墓
台グスク
護佐丸の墓






中城城跡(泊)
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●武将・護佐丸の居城として知られ、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産に登録された沖縄を代表するグスクの一つである。


【中城城跡】
グスク美の最高峰:中城湾を見をろす石灰岩の台地をとり囲むように築かれたグスクで、護佐丸の居城としてよく知られている。
グスクの北側は、なだらかな斜面となって集落に連続している。
東と南と西の三方は、けわしい崖をなして自然の要害を形成している。
西側に首里にむかって表門が開かれ、東南に裏門(現公園入口近く)が開かれている。
表門は、グスクでただ一つの楼門形成となっている。楼門形成とは、門の両側に石垣が積まれ、その上に木の門を乗せる二階造りの門のことである。
石垣にはつる草がからまり、天井ふきんは雑木の枝葉が交錯しトンネルをつくっている。表門をくぐり左側の石段を上がって行くと、南の郭に入るアーチ門(拱門)がある。南の郭は久高島、首里への遥拝所、雨乞い御嶽などがあり、樹木をぬう木漏れ日が陰を落とし、聖域としての雰囲気を伝えている。
郭内は複雑な形状を見せる。升の形を思わせる小広場を通ってアーチ門をくぐると一の郭にいたる。
一の郭は、グスクの中でも最高所にあり、面積も大きい。グスクの中心をなすものと考えられている。広場の前方に一段高くなったもう一つの広場がある。その広場に通ずる石段が三ヵ所に設けられ、そこには建物の礎石などが残っている。礎石上には主殿が立っていたと考えられている。なお、ここには昭和の初期ごろまで建物が建っており、番所として利用されていたといわれる。
主殿跡の横、郭の中でもっとも高く見晴らしのいい場所には石積みの物見台とよばれる場所がある。一の郭と二の郭はアーチ門によって連結されている。二の郭は拝所が一ヵ所見られるだけで何もない広場となっている。一の郭と二の郭の城壁には、石垣の上を人が通れる小径がつくられ、外側の石垣が60センチほど高く積まれている。この小径を「武者走り」とか「犬走り」とよび、敵を見張る目的につくられたと考えられている。
二の郭から三の郭へは内側からは行けない。三の郭へ行くには、いったん北側の郭へ出て、勾配の急な石段を上がって入るようになっている。このように、三の郭は二の郭と連結されていないことや、あるいは石積みの手法の違い、機能的な違いなどから築城年代に差があるのではないかと考えられている。
北の郭と西の郭は、三の郭と同様の石積み手法が用いられ、同時に拡張されたといわれている。両郭ともに立派な井戸(泉)を備えており、みごとな石積みで囲まれている。
中城グスクの拡張された様子を謡ったと見られる「オモロ」がある。
一、きこゑ 中くすく (名高き中城)
  あがるいに むかて (東方に向けて)
  いちやじや たてなおちへ (板門を建て直して)
  たくにおそう 中くすく (国々を守り、支配する中城)
  又とよむ 中くすく (美しき中城)
  てだがあなに むかて (生まれいずる太陽にむかって)
この「オモロ」に謡われる太陽にむかって開かれた城門とは、裏門のことである。この門も新しく拡張されたものだといわれている。
次に石積みの手法を見ていく。南の郭、一の郭、二の郭の石積みは布積み(四角に加工した石を地面に平行に積み上げる)の手法を使って築かれている。三の郭、西の郭、北の郭は乱れ積み(石の形に合せてかみ合わせるように積む)の手法が用いられている。
なお、南の郭には野面積みの石垣も見られる。現存する沖縄古城跡の中でも、もっとよく原型をとどめており、往古の姿を今に伝え、三山統一の動乱をかけ抜けていった沖縄の歴史を、積み上げた美しい石垣の一つ一つに残している。
いい伝え:築城年代に差があることは石積みの手法の違いから推察することができるが、詳細については謎の部分が多い。
伝えられる話では、英祖王の子(大成王の弟)が中城の地を与えられて中城王子となり、この地にはじまてグスクを築き居城としたという。
いかなる理由からか知る由はないが、城主・中城按司(中城王子)は、第一尚氏の時代になると、真栄里グスク(糸満市)に移されたという。中城按司が真栄里グスクに移った後、中城グスクの城主になったのが、座喜味グスクを居城としていた護佐丸である。
その経緯について『毛氏先祖由来記』には、次のように記されている。「護佐丸は、勝連半島で勢力をのばし、周辺地域を支配しつつあった勝連按司・阿麻和利から中山を守るため、中山王尚泰久から中城の地を与えられ、グスクを築き中城按司となった」
●護佐丸の死
三山統一の戦いで名武将ぶりを発揮した護佐丸が、その名を国中にとどろかせていたころ、勝連グスクでは十代目の城主・阿麻和利が着々と力をつけ、その勢いは中山王といえども無視できるものではなかった。
政略結婚(尚泰久王妃・百度踏揚と阿麻和利の結婚)という手段によって、阿麻和利を取り組むことに成功したかのように見えた尚泰久王だが、心を許すことはできなかった。
一方、尚泰久王の心を知ってか知らずか、勝連グスクにあっていよいよ勢力を強める阿麻和利は、自らの野望の実現にむけて着々と策をめぐらしていた。
中城グスクにあっては、城主・護佐丸は不測の事態に備えるべく、兵馬の訓練に余念がなかった。
尚泰久王、護佐丸、阿麻和利三者の緊張関係は日を追うごとに厳しさを増していった。そうしたなかにあって、一早く行動を起こしたのは阿麻和利であった。
阿麻和利はひそかに首里城へ上り、尚泰久王に護佐丸の不審な動きを告げる。事態は阿麻和利の思惑通りの展開を見せる。阿麻和利の急報をうけた尚泰久王は、逡巡した後、ついに中城グスクへ兵をさしむける。その先陣をきったのは阿麻和利であった。
折りしも時は中秋の名月、中城グスクでは煌々と照り輝く月の下で月見の宴がくりひろげられていた。そこへ敵兵の急襲であった。月明りの下でひるがえっていたのは、こともあろうに王旗である。夫人、長男、二男もろとも自刃、護佐丸も自らの命を断つ。1458年のことだという。
屏風のような美しい曲線を描く城壁美を誇る座喜味グスク、重厚で精巧な手法を今に伝える拡張された中城を築き、名築城家と称される護佐丸。国家統一の過程で見せる沖縄戦国絵巻きの中で、一きわ異彩を放つ護佐丸が、いかなる宿望を胸に秘めていたかは知る由もない。
資料:沖縄のグスクめぐり(むぎ社)






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